前の10件 | -
改良版「縦書きたい」ベータ版テスト(1) [縦書きコラムについて]
ブログ用に縦書きのHTMLソースを自動生成するサイト「縦書きたい」のプログラムを改良し、縦書き用のタグ等を含むソースの文字量を(内容や長さによって大きく異なるのですが)だいたい3分の1程度になるように変更しました。各ブログはどこも一記事当たりの文字数に制限がありますが、今回の改良によって、より長い文章を縦書きにできるようになったはずです。と言っても、やはり限度があって、普通に横書きする場合からすれば、恐ろしく短い量ではあるのですが…。
以下は、各ブログでどの程度の長さの文章が挿入可能かを調べるテストです。
※なお、改良版「縦書きたい」では、従来の太字、ルビに加えて、部分文字列に対する文字色の指定や、リンクの設定なども可能にしましたが、これをやると、ソースの文字量はグンと増えてしまうので、要注意です。
(ここまで原稿用紙1枚分)
■大昔に書いた小説の出だし
窓を開けるとバス会社の車庫があった。二階の窓の下には、申し訳程度に五〇センチ足らずの空間があるだけで、塀のすぐ向こうは車庫の敷地になっていた。手を伸ばせば届きそうな近くに、何台ものバスが並んでいた。まだ子供だったときのように、それは少しだけ胸のときめく眺めだった。
引っ越しは二月の半ばだったから、朝はまだ暗い時間から始発バスの暖気運転の音が響いた。いくつかの白色灯がともり、冬の朝の暗い冷たい空気の底に、さかんに白い湯気が上っていた。
はじめの朝はさすがに目が覚めたが、もちろん引っ越し前から分かっていたことだったし、どうせすぐに慣れるとタカをくくってもいた。たとえば、ヨウスケの最初の部屋は西武線のすぐ脇にあり、窓越しに乗客と挨拶が交わせるぐらいだったが、三回目に泊まった
(ここまで原稿用紙2枚分)
朝からはまったく気にもならなかった。人は多少のことには慣れることができるのだ。
部屋は四畳半に小さな台所とガスコンロがついていた。ヨウスケから譲ってもらった木製のベッドと、二個のスチール本棚、それに何個かのカラーボックスを重ねると、もうたいしたスペースもなかったが、ぼくはけっこう気に入っていた。前の部屋も四畳半だったが、台所はなかったし、それに家主夫婦が一階に住んでいるのがどうにも気重だった。誰かからの電話のたびに家主のおばさんに呼び出されるのもいやだった。夜中の九時をすぎると、不機嫌な様子が露骨だった。
確かにその分家賃は安かった。上京したときには、まずそれが一番で、そのほかは我慢すればいいと思っていたのだ。新しい部屋の家賃はその倍近かったが、この春からは奨学金がもらえることになっていたし、東京でバイトを探すことにも慣れたので、何とかはな
(ここまで原稿用紙3枚分)
りそうだった。それよりも何よりも、ぼくはぼくの生活を変えたくてしかたがなかった。
一九八一年の冬。ぼくはいつの間にか二〇歳になっていた。
駅は中央線の武蔵境だった。ひとつ手前の三鷹を過ぎると、とたんに郊外という雰囲気になった。アパートの近くにはまだ畑地がだいぶ残っていたし、とれた野菜の無人販売所が道端に無造作にたっていたりもした。細い路地がいくつもあり、通りに沿って植木鉢がきちんと並べられた家々もあった。
駅までは歩くと十五分はかかったので、中古の自転車を買った。中央線に沿って国分寺の方へ走ると、のどかな郊外の風景が続いた。雑多な商店が並ぶあちこちの通りも好ましかった。何というか、人の生きている姿の輪郭が見える風景だった。そういう風景の中に自分を置いてみると、ぼくはぼくにとっての東京というものを測れるような気がした。
(ここまで原稿用紙4枚分)
以下は、各ブログでどの程度の長さの文章が挿入可能かを調べるテストです。
※なお、改良版「縦書きたい」では、従来の太字、ルビに加えて、部分文字列に対する文字色の指定や、リンクの設定なども可能にしましたが、これをやると、ソースの文字量はグンと増えてしまうので、要注意です。
(ここまで原稿用紙1枚分)
■大昔に書いた小説の出だし
窓を開けるとバス会社の車庫があった。二階の窓の下には、申し訳程度に五〇センチ足らずの空間があるだけで、塀のすぐ向こうは車庫の敷地になっていた。手を伸ばせば届きそうな近くに、何台ものバスが並んでいた。まだ子供だったときのように、それは少しだけ胸のときめく眺めだった。
引っ越しは二月の半ばだったから、朝はまだ暗い時間から始発バスの暖気運転の音が響いた。いくつかの白色灯がともり、冬の朝の暗い冷たい空気の底に、さかんに白い湯気が上っていた。
はじめの朝はさすがに目が覚めたが、もちろん引っ越し前から分かっていたことだったし、どうせすぐに慣れるとタカをくくってもいた。たとえば、ヨウスケの最初の部屋は西武線のすぐ脇にあり、窓越しに乗客と挨拶が交わせるぐらいだったが、三回目に泊まった
(ここまで原稿用紙2枚分)
朝からはまったく気にもならなかった。人は多少のことには慣れることができるのだ。
部屋は四畳半に小さな台所とガスコンロがついていた。ヨウスケから譲ってもらった木製のベッドと、二個のスチール本棚、それに何個かのカラーボックスを重ねると、もうたいしたスペースもなかったが、ぼくはけっこう気に入っていた。前の部屋も四畳半だったが、台所はなかったし、それに家主夫婦が一階に住んでいるのがどうにも気重だった。誰かからの電話のたびに家主のおばさんに呼び出されるのもいやだった。夜中の九時をすぎると、不機嫌な様子が露骨だった。
確かにその分家賃は安かった。上京したときには、まずそれが一番で、そのほかは我慢すればいいと思っていたのだ。新しい部屋の家賃はその倍近かったが、この春からは奨学金がもらえることになっていたし、東京でバイトを探すことにも慣れたので、何とかはな
(ここまで原稿用紙3枚分)
りそうだった。それよりも何よりも、ぼくはぼくの生活を変えたくてしかたがなかった。
一九八一年の冬。ぼくはいつの間にか二〇歳になっていた。
駅は中央線の武蔵境だった。ひとつ手前の三鷹を過ぎると、とたんに郊外という雰囲気になった。アパートの近くにはまだ畑地がだいぶ残っていたし、とれた野菜の無人販売所が道端に無造作にたっていたりもした。細い路地がいくつもあり、通りに沿って植木鉢がきちんと並べられた家々もあった。
駅までは歩くと十五分はかかったので、中古の自転車を買った。中央線に沿って国分寺の方へ走ると、のどかな郊外の風景が続いた。雑多な商店が並ぶあちこちの通りも好ましかった。何というか、人の生きている姿の輪郭が見える風景だった。そういう風景の中に自分を置いてみると、ぼくはぼくにとっての東京というものを測れるような気がした。
(ここまで原稿用紙4枚分)
すべてのブラウザでテキストの縦書きを [縦書きコラムについて]
ウェブの作法は「横書き」だろう。実際、ウェブ上の長文を読む場合は(適切なレイアウトである限り)横書きの方が読みやすいと思う。
とは言え、拙いながら長く詩を書いてきた者としては、詩歌だけは「縦書き」が良いと思う。もちろん、優劣ではなく、好みの問題ではあるのだけど――
ブログを始めて、このことがどうにも不満で仕方がなかった。ブログのベースは「横書き」で構わない。詩歌の部分だけでいいから「縦書き」にしたかった(こういう人は一定の割合存在しているのではないだろうか)。
現在、「縦書き」には一部のブラウザしか対応していない。
そこで、すべてのブラウザで「縦書き」にするために、フラッシュとかPDFで「縦書き」のものを作り、それをHTMLに埋め込むという方法が考えられるが、個人的には、これがどうも好きになれない。もちろん、好みの問題であって、気にしない人はまったく気にしないに違いないが。
すべてのブラウザで「縦書き」に「見せる」のは、実は簡単だ。1文字1文字に「座標」を割り振ってやればいいのだ。
いちいち計算するのは現実的ではないが、スクリプトを使えば、基本的には入力したテキストから自動的に座標を振ったソースを生み出すのは可能だ。
それを自作してみたのが「縦書きたい」サイトで、そこで出来上がったソースをブログに入力すれば(ブログによっては制限にかかるものもあるようなのだが)、このページのように「縦書き」になる。文字数の制限にかからない場合は、一度ソースをコピペしてしまえば、「縦書きたい」のサーバにも依存しない(長文の場合は、専用の貼付ソースもあり)。
もちろん「縦書き」に見えるだけで、本当は「縦書き」ではないので、いくつか問題が生じる。
まず、リンクなどのタグが使えない。が、これはもともとの用途が「詩歌の縦書き」なので、個人的には問題がない。文字色と背景だけは設定可能になっているので、ほぼ私の用には足りている。必要があれば、ブログのベースの「横書き」を併用すればいい。
次には、コピペができないこと。
そこで、「横書き」「縦書き」切り替えができるようにしてみた。この記事の「縦書き部分」の下に、横書きの「縦書きたい」の文字があるが、その横の「+」が切り替えのボタンになっている。「横書き」に切り替えれば、普通にコピペが可能だ。
もう一つは「検索の対象」にならないこと――だったのだが、「横書き」「縦書き」切り替えのために、「横書き」の文字列もソースの中に含めたところ、ありがたいことに「検索」にもかかってくれるようだ。
こういう不完全な「縦書き」ツールですが、ブログに、詩歌や短文を「縦書き」で部分的に入れてみたい方は、一度使ってみてください。本来が個人用なので、マニュアル等もありませんが、複雑なものではないので、十分「勘」で大丈夫です。
とは言え、拙いながら長く詩を書いてきた者としては、詩歌だけは「縦書き」が良いと思う。もちろん、優劣ではなく、好みの問題ではあるのだけど――
ブログを始めて、このことがどうにも不満で仕方がなかった。ブログのベースは「横書き」で構わない。詩歌の部分だけでいいから「縦書き」にしたかった(こういう人は一定の割合存在しているのではないだろうか)。
現在、「縦書き」には一部のブラウザしか対応していない。
そこで、すべてのブラウザで「縦書き」にするために、フラッシュとかPDFで「縦書き」のものを作り、それをHTMLに埋め込むという方法が考えられるが、個人的には、これがどうも好きになれない。もちろん、好みの問題であって、気にしない人はまったく気にしないに違いないが。
すべてのブラウザで「縦書き」に「見せる」のは、実は簡単だ。1文字1文字に「座標」を割り振ってやればいいのだ。
いちいち計算するのは現実的ではないが、スクリプトを使えば、基本的には入力したテキストから自動的に座標を振ったソースを生み出すのは可能だ。
それを自作してみたのが「縦書きたい」サイトで、そこで出来上がったソースをブログに入力すれば(ブログによっては制限にかかるものもあるようなのだが)、このページのように「縦書き」になる。文字数の制限にかからない場合は、一度ソースをコピペしてしまえば、「縦書きたい」のサーバにも依存しない(長文の場合は、専用の貼付ソースもあり)。
もちろん「縦書き」に見えるだけで、本当は「縦書き」ではないので、いくつか問題が生じる。
まず、リンクなどのタグが使えない。が、これはもともとの用途が「詩歌の縦書き」なので、個人的には問題がない。文字色と背景だけは設定可能になっているので、ほぼ私の用には足りている。必要があれば、ブログのベースの「横書き」を併用すればいい。
次には、コピペができないこと。
そこで、「横書き」「縦書き」切り替えができるようにしてみた。この記事の「縦書き部分」の下に、横書きの「縦書きたい」の文字があるが、その横の「+」が切り替えのボタンになっている。「横書き」に切り替えれば、普通にコピペが可能だ。
もう一つは「検索の対象」にならないこと――だったのだが、「横書き」「縦書き」切り替えのために、「横書き」の文字列もソースの中に含めたところ、ありがたいことに「検索」にもかかってくれるようだ。
こういう不完全な「縦書き」ツールですが、ブログに、詩歌や短文を「縦書き」で部分的に入れてみたい方は、一度使ってみてください。本来が個人用なので、マニュアル等もありませんが、複雑なものではないので、十分「勘」で大丈夫です。
縦書きコラム登録テスト [縦書きコラムについて]
縦書きコラムの登録テストです。(縦書きコラム作成 : 縦書きたい)
「縦書きたい」は、横書きのブログに、コラムの形で、縦書きの詩歌を挿入できるHTMLのソース(縦書きコラム)を自動で生成するサイトです。自分のブログに縦書きの詩を挿入したいという目的のためだけに作成しました。
このブログでは、いままであちこちのブログで書いた記事を、「縦書きコラム」を使いながら、再編集し、再録していきます。
また、新しい記事も、ボチボチと投稿していく予定です。
世界樹
一本の樹 世界の香気が
風に乗ってふりまかれる
手のひらをそっと触れると
さかのぼる水
遡り ゆっくりと時間をかけて
浸みわたるぼくらの記憶
見上げると 世界の言葉が
木漏れ陽のように降っている
きみの母国語の
美しいささやきを聞き分ける
世界樹(ユグドラシル) きみの国の言葉では
この樹のことを何と呼ぶのか?
この星の最初のひかりが
その枝々を輝かせる頃
ぼくらはやわらかに手を取り合って
目覚めるたびに驚くのだ
こんなにも深く
結ばれていることに
一本の樹 世界の香気が
風に乗ってふりまかれる
手のひらをそっと触れると
さかのぼる水
遡り ゆっくりと時間をかけて
浸みわたるぼくらの記憶
見上げると 世界の言葉が
木漏れ陽のように降っている
きみの母国語の
美しいささやきを聞き分ける
世界樹(ユグドラシル) きみの国の言葉では
この樹のことを何と呼ぶのか?
この星の最初のひかりが
その枝々を輝かせる頃
ぼくらはやわらかに手を取り合って
目覚めるたびに驚くのだ
こんなにも深く
結ばれていることに
このブログでは、いままであちこちのブログで書いた記事を、「縦書きコラム」を使いながら、再編集し、再録していきます。
また、新しい記事も、ボチボチと投稿していく予定です。
春休みの新婚生活 [詩の周囲・四辺の詩(春)]
犬田布
草の上に寝ころぶ
勢いをつけて
草の上を転がり落ちる
海までは遠い
川の堤の上からなら
柔らかな土筆(つくし)を背中でつぶしながら
川べりまで転がることができた
天降(あもり)川の河原には
大きなコンクリート管が転がっていた
だれが置き去りにしたものだったか
(のんきな時代だったのだ)
そのなかでいくら暴れてみても
コンクリート管はピクリともしなかった
突然に降り出した雨が
降り止むまで
そのなかに隠れていたこともある
川面にはいくつもの波紋が乱れ
小さな魚の跳ねるのが見えた
雨が上がると
誰もいない
いつのまにか三十歳を過ぎたぼくは
岬の草原に降りていて
岩場に砕ける波を見ていた
この沖に巨大な戦艦が沈んでいるという
大きな記念碑の落とす影が
足もとまで伸びている
そのなかに隠れるわけにはいかない
振り返ると
二時間ドラマの終盤に
パトカーが連なってやって来そうな場所だ
もちろんそんなことはなくて
ぼくは傾斜を登りはじめる
なだらかな丘の向こう
駐車場にとめてある車に向かって
その春結ばれたばかりの
妻を連れて
草の上に寝ころぶ
勢いをつけて
草の上を転がり落ちる
海までは遠い
川の堤の上からなら
柔らかな土筆(つくし)を背中でつぶしながら
川べりまで転がることができた
天降(あもり)川の河原には
大きなコンクリート管が転がっていた
だれが置き去りにしたものだったか
(のんきな時代だったのだ)
そのなかでいくら暴れてみても
コンクリート管はピクリともしなかった
突然に降り出した雨が
降り止むまで
そのなかに隠れていたこともある
川面にはいくつもの波紋が乱れ
小さな魚の跳ねるのが見えた
雨が上がると
誰もいない
いつのまにか三十歳を過ぎたぼくは
岬の草原に降りていて
岩場に砕ける波を見ていた
この沖に巨大な戦艦が沈んでいるという
大きな記念碑の落とす影が
足もとまで伸びている
そのなかに隠れるわけにはいかない
振り返ると
二時間ドラマの終盤に
パトカーが連なってやって来そうな場所だ
もちろんそんなことはなくて
ぼくは傾斜を登りはじめる
なだらかな丘の向こう
駐車場にとめてある車に向かって
その春結ばれたばかりの
妻を連れて
その頃、妻は筑波で学生をやっていて、ぼくは奄美と沖縄の間にある徳之島という島に赴任していた。結婚すると言っても、当面は別居のままで、それがいつまで続くかもはっきりとは分かっていなかった。
3月の頭に結婚すれば、少なくとも妻の大学が春休みの間は、つかの間の新婚生活を送れる。それが主な理由だったわけだ。
学業に加え、結婚の諸々の準備に追われた妻も大変だったが、年度末にまとまった休みをとろうというぼくの方もいくらか無理をした。それがたたったのか、結婚式の前夜に扁桃腺を腫らして発熱。新婚旅行の出発も3日遅らすという失態をやってしまった。
今に至る夫婦間の力関係というのも、振り返ってみれば、この時点で決まっていたのだろう。その後の数年にわたる努力も、結局は空しく潰えてしまって、妻にはどうにも頭が上がらない。中2の子どもが「恐妻家ってのもいいよね」なんて言う始末だ。
ぼくらがつかの間の新婚生活を送った徳之島は、美しい島だ。奄美本島や与論、沖縄ほどは観光地としても著名ではない。一周80km余、2時間ほどで回り切ってしまう上、ちょっとした茂みにも毒蛇のハブがいて、無闇に自然の中に分け入っていくというわけにもいなかい。滞在型の観光地としては、やや部が悪いのかもしれない。だが、それでもこの島の美しさは忘れがたい。幸福な思い出というのは、ときに一枚の「絵」のように思い出される。春休みの南の島はもう十分に暖かく、ぼくらは手をつないで堤防を歩いたり、砂浜に降りて、サンゴのかけらを拾ったりした。
詩に出てくる「犬田布岬」は、海岸の断崖に続くなだらかな傾斜を緑が敷き詰め、その向こうの海も空も少し霞んで、頬を吹きすぎる風が心地よかった。この「絵」は、今もぼくのとっておきの一枚である。
ビスケットの日 20歳の恋 [詩の周囲・四辺の詩(冬)]
ビスケットの日
ビスケットの日のことを
むかし教えてくれた娘がいて
その日が何日だったのかも
その子の顔さえも
もう忘れてしまったのだけど
あゝそんな日があるんだなぁと
思ったことだけを憶えている
大学の古い西門を抜けて
細くうねる筋を抜けた
四つ辻の角にある珈琲店「甍」
その窓際の席で本を読んだり
出入りする友達たちと
あいさつを交わしながら
ぼくは徒らに日々を過ごしていた
「今日はビスケットの日だぞ」
店の隅に吊された
仲間たちの連絡ノートに
男っぽい字でその子は書いた
はじめてのデートの帰り
ぼくらは次の映画の約束をして
ビスケットの小さな包みを買った
モラトリアムという語感ほど
気楽ではなかったけれど
不安より未来を信じていた
その日が何日だったのか
その後誰に尋ねることもないまま
ぼくは今もときどき
子供のためにビスケットを買う
この詩を書いた90年代の半ば頃は、すでにインターネットの利用が広まりつつあったはずだが、まだ今のようにネット検索で何でも調べられるというほどではなかった。だから「ビスケットの日」があるというのは憶えていたが、それが何日だったかはこの頃まではまったく分からなかった。あるいは、この詩を書いていなければ、そのまま調べることもなかったかも知れない。
「今日はビスケットの日だぞ」と書いた女の子に、ぼくは20歳のとき恋をした。上京して2年目、東京での初めての恋だった。
1981年2月の雪の降る夜に、ぼくは初めて彼女に電話した。外の電話ボックスからだった。大学生の頃はまだ部屋に電話を引けなかったからだ。アパートの廊下にピンク電話があったが、もちろん誰が聞いているか分からないところで電話する勇気はなかった。
彼女とは3度だけデートした。待ち合わせは三鷹駅の中央線上りの国立寄りのホーム。3度ともそうだった。
![天井桟敷の人々 [DVD] 天井桟敷の人々 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/217T35RB6VL._SL160_.jpg)
最初は、ぼくがチャップリンの「ライム・ライト」に誘った。2度目は、彼女が「天井桟敷の人々」を観に行こうと言った。
25年ほど前とは言え、そんな古い映画がよくもまぁ続けて上映されていたものだ。
映画を観て、喫茶店に行って、食事をして、また中央線に乗って帰った。そんなものだった。
3度目のデートが、今思えば、たしか彼女が「ビスケットの日」を書いたときだった(とすると、どうも上の詩には勘違いがあったようだ)。その日、彼女は、春休みで実家に帰省することになっていて、ぼくは東京駅まで彼女を送った。そして、それが最後のデートになった。
東京を離れて、実家に帰って、彼女は少し冷静になった、ということだろう、たぶん。
その失恋は、当時のぼくにはかなりの痛手だったが、ふっきれたときには、何だか憑きものが落ちたように、ぼくは(以前に比べればだが)すっかり陽気な人間になっていて、周囲を少しだけ驚かせた。
つまり、最後のデートの日付は、1981年2月28日ということ。日記をつけたことのないぼくにとって、若い頃のデートで、いま日付が分かるのは、この日だけだ。そう思うと何だか不思議な気がしてくる。
借家の温泉と冬の庭 [詩の周囲・四辺の詩(冬)]
冬の果実
おしゃべりな鳥達が今朝は黙って飛んでいる
日の吉凶を占うように詩の一行を始めてみる
何も変わらない日々が薄く積み上げる埃の膜
回る陽の反復が足許から奪っていく影の破片
少年期に住んだ浸蝕され続ける孤島の堤防も
永い厳しさに飽いて紐帯を解く極北の氷塊も
同じ時間を過ぎる無関係なものを試みに思う
鎌倉の義父の庭の膨らんでいく梅の蕾の速度
詩の次の行への勢いと躊躇いを道の先に置く
晴れの日曇りの日雨上がりの朝の光の具合い
正しさとは別の何かで測られるぼくの日々の
多少も広狭も深浅も何ほどの事と高を括って
括り切れないものが熟れていくのを見ている
例えば思いがけない借家の庭の果実のように
妻の方も、詳しく聞いたことはないが、おそらく十数回以上は引っ越しているはずで、13歳の息子も、ぼくの同じ年の頃には及ばないものの、いまの家が6軒目になる。
この家のひとつ前に住んでいたのは、別府の古い一軒家で、大家の老夫婦が新しい家を建てたときに、それまで住んでいた家を借家に出したものだった。
湯の町「別府」の旧家らしく、風呂が温泉で、「かけ流し」ができるのが何と言っても魅力だった。風呂のガタピシするサッシを開ければ、そこにはちょっとした庭があり、家にいながら露天風呂の風情を味わうこともできた。
実際、古い家で、すきま風は寒いし、サッシの鍵は外から揺らすだけで外れたり、蜘蛛が出たり、ムカデが出たり、ナメクジが出たり、と散々ではあったが、この「温泉」だけは素晴らしかった。多少のことには目をつむっていてもいいほどに。
ところが、もともとが自宅用なので、庭は広く、畑があり、古い庭木が雑然と茂っていて、引っ越しをした冬はさほど問題はなかったのだが、春になり、やがて梅雨になる頃、ぼくら夫婦は見込みの甘さを知ることになる。
共稼ぎで、二人とも平日は昼間家におらず、土日も半分は仕事だったり、疲れて寝坊したりしているとどうなるか。まして雨の季節はなかなか外に出られない。すると、草が茂るのである。実に。庭木も伸びるのだ。
妻は陽に長く当たると駄目なたちなので、結局、ある程度以上に茂ってしまうと、天気の良い土日2日を完全に潰して、ぼくが「草取り」をすることになる。そこまでひどくなる前に日頃から、という思いは当然あるのだが、なかなかそうはいかないのだ。
陽に焼け、汗を絞り尽くし、一時的なダイエットの代償に、数日にわたる足腰の痛さを覚悟して、草を取る。庭木の塊りの奥は鬱蒼と茂り、蜘蛛が巣を張り、ムカデが蠢き、蜂が飛び、蛇が這うような気配があり…。
毎年、秋になり、庭の渋柿がひととおり落ち、それを片付け…。やがて寒い季節になると、もうそれほど草は伸びない。ぼくは正直ほっとした気持ちになり、ようやく少し余裕をもって借家の庭を眺めることができた。
冬の朝の影絵の街 [詩の周囲・四辺の詩(冬)]
冬の朝に
海岸線に低く長く影絵のように続く工場地帯
この街のことは子供の教科書にも載っている
そのことをよそ者のぼくは子供に教えられた
それだけのことだ冬の日の雪の晴れ間の朝の
声高に言うことで何かに与してしまう不安を
いつも丁寧に避けながらなお苛立つ心を抱え
海の冷たさを渡る見えない風の気配を感じる
それは何処からか何処かへと吹き抜ける風で
ぼくはそこにはいない妻も子も仕事もあるが
カーブのたびに膨らんでそのまま道を逸れて
いつか一人になるのをいつまでも恐れている
かつて世界と呼んだ何かが不意に眼前にあり
それはぼくの知らなかった街や人や光や風を
含んでいるがぼくだけは多分含まれていない
この区間の国道は、地元では「別大国道」と呼ばれている。「別大(べつだい)」とは、もちろん「別府-大分」の略だ。大分ではこの道路の呼称にかかわらず、「別大」のつくネーミングは少なくない。語感としては極めて人工的な感じのする語だが、それがこれだけ定着しているのは少し不思議な気がしないでもない。
ところで、この別府市~大分市間の道路は、ぼくの生まれ育った鹿児島の鹿児島市~姶良間の道路と、その感じが極めて似ている。実はともに同じ国道10号線だ。
まず、別府湾・錦江湾(鹿児島湾)という、どちらも対岸が望めるような狭い湾岸に沿った道であること。海岸のすぐ近くまで山が迫り、小さな集落を除いて、ほとんど人家のない道が続くこと。四車線の広い道路で交通量もかなり多いこと。JR線がこの国道と並行して山側を走っていること。
さらに加えて言えば、大分には「高崎山」、鹿児島には「磯公園」というよく知られた観光地がその道路沿いにあること。
確かに「桜島」がある・ないという最大の、そして決定的な違いはあるのだが、その点だけを除けば、恐ろしいほど似ている。今も車を走らせていると何とも不思議な気持ちがしてくるほどだ。
ところが地図などで眺める限りは、その相似には気づきにくい。地図上での向きが違うからだろうか。さらに九州では、大分と鹿児島というのは地理的にも最も疎遠な県で、人の行き来も少ないため、この相似に気づいている人はそれほど多くはないはずだ。
この道路を車で走っていると、大分市側の海岸線にはかなり大きな工場群が見える。それらはほとんどが「新日鐵」関連のもので、子どもの社会の教科書にも、大分市は九州有数の工場地帯として載っているらしい。
ぼくが子どもの頃の教科書には載っていたのか載っていなかったのか、なぜかまったく記憶がなく、ぼくには、大分が工場地帯であるという認識はあまりなかった。たまに子どもの教科書を覗くだけでも面白い発見に出会うことがある。世界は依然として未知なものに満ちているということか。まるで小さな頃の汽車の車窓みたいだ。
この海岸沿いの工場群が少し霞んで影絵のように見える朝の風景は「詩的」といっていいほどの「美しさ」がある。もちろん毎日ではないが、ときおりのその美しい遠景は、思わず見とれてしまうほどだ。
ぼくは、毎年海外旅行に出かけるよりも、国内のいろんな土地に数年ずつ住んでは引っ越して回る生活に憧れる。父が引っ越しの多い仕事だったので、以前のぼくは、自分は「定住」や「濃密な人間関係」に憧れていると思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。
自分のことでさえ年齢を重ねなければ分からないことが多いのだ。
教師クビ切りの果て [テレビのこちら側で]
先日、何気なくテレビをつけたら、安倍新内閣の閣僚が二人ほど出ていて、これからは駄目な教師はどんどん辞めさせる、と意欲満々で話していた。もはや若くもなく、少なくないローンを抱えているような大多数の教師たちは、どんな気持ちでこれを聞いていたことか。少なくとも人の「生殺与奪」にからむ話である。その態度に傲慢ととられるようなところはないか、口にする側は十分な意識、自制を働かせるべきであろう。しかし、二人の閣僚に見えたのは、自分の新たに得た権限への自負と、自らの意欲を誇示するばかりの態度であり、そこには自分たちの発言が「教育の現場」にどのような影響を与えるか、という配慮は微塵も見えない。
「混乱」を与えようとする側が、その「混乱」に対してまったく配慮を欠いている、というのは政治家としての資質を云々されても仕方ないのではないか。
全国の教師の中に、無気力で、熱意にも技術にも欠けるような人たちがいることは確かだろう。これほど多くの教師がいるのだ。優秀な国家公務員ばかりで固められていたはずの社会保険庁の杜撰さを思い出してもいい。どういう組織にもそういう層は存在すると考えていい(社保庁は何人辞めさせられたのか?)。
しかし、「教師をやめさせる」制度が実現したときに、まっさきにクビを切られるのは、こうした教師たちではなく、一定以上の熱意があり気力があって、それ故に校長・教頭や教育委員会(あるいは教育官僚)に、何かと意見を言ったり、はむかってきた教師たちであろう。「人」あるいは「人の組織」というのはえてしてそうしたものである。
校長・教頭・教育委員会なりの人々はすべて私心がなく公平で、公明正大であるなんてことはあり得ない。そう信ずる人間がいたらとんでもない脳天気だろう。ダメ教師だが、上には従順で逆らわない人間は後に回される。少なくともそうなる危険性は小さくない。
実際にそうして「駄目な教師」(「気に入らない教師」と言うべきか)を辞めさせたとしよう。教師が足りなくなって、新たに雇用するしかないわけだが、日本のどこにそんな「優秀」な教師たちがころがっているというのだろう。今までだって、教師たちを採用してきたのは管理者側の方で、それなりに「優秀」な人たちを選抜してきたはずだ。
駄目な教師が増えて教育が荒廃したというなら、まず責められるべきは、採用する側の見識のなさであろう。それを省みる前に教師個人ばかりを責めるのも何だかなぁ、とぼくには思われる。そこには(身内だから)ふれずに、「駄目な教師」を辞めさせる。さらにさきの選抜から漏れた「出がらし」から採用する。結局は、上の人間の言うことに従順な教師ばかりが増えることになるだろう。それを「教育の荒廃」と言うのではないか?
駄目な教師が増えてきたというのは、裏を返せば、優秀な人が教師にならなくなったということだ。国が雇用者として優秀な人材を採用したいと思うなら、優秀な人材が集まるように努めなければならない。少なくとも普通の会社にとって、優秀な人材を集めるというのが、最大の難事であるように、それは国にとってもそうなのである。
にもかかわらず、これまでよりも給料は下げる、気に入らない教師はどんどん辞めさせる、と明言する。これがどれだけ「素晴らしい」雇用対策であるか、考えるまでもあるまい。
「美しい国」は誰の国? [テレビのこちら側で]
安倍晋三の言葉に、ぼくはあまり魅力を感じない。言葉の選び方、その内容と展開、そして話し方のいずれも、ぼくらが首相という存在に期待していいはずのレベルには達していない気がするのだ。あるいは、安倍晋三は優れた政治家なのかも知れない、その可能性は否定しないが、仮に役者が有能な政治家の役をあのように演じたとしたら、それは「大根」以外の何ものでもあるまい。編集の効くテレビならまだしも、生の舞台はとうてい任せられない。
口下手だから駄目だと言うのではない。言葉の生まれてくるところの問題なのだ。安倍晋三の言葉には「理想」がない。いささか突飛な言い方かも知れないが「愛」がないのだ。
チャップリンの映画「独裁者」の、あの最後の演説を思い出してみてもいい。おそらく政治家の言葉というものが、ある種の「理想」を帯びて聞く者の心に響き得るのは、彼が弱い人々の立場に立っているときである。
では、安倍晋三はどこに立っているのか? そう考えるとき、彼の言葉の底が見えてくる。
安倍晋三の「美しい国へ」というフレーズは、一見、理想を語っているようにも見えるが、どうもそのようには響いてこない。
彼の考える「美しくないもの」を排除したり、なくしたりすることで、彼の考える「美しさ」を、「美しい国」を実現しようとしているのではないか。つまり、切り捨てられたり、見捨てられたりする者が出てくるということである。「君が代」を歌わないだけで辞めさせられる教師のように。
「排除の理論」あるいは「純化」。ぼくにはそういう疑念が拭えない。近くは、小泉前首相が、自民党から彼の言う「抵抗勢力」を追い出したのと変わらない発想である。それを「国」全体にやろうとするのではないか。政党という単なる「組織」と、国という「国」としか呼べないような、人にとっての不可避な存在を一緒に考えられては困るのだ。
「穏当な多様性の容認」。ぼくが政治に求めるのは基本的にはそういうものなのだが、安倍晋三は、どうもそうではない気がしてならない。
観念的な「美」あるいは「崇高さ」、これらがナショナリズムとむすびつくときの危険性というものに、少なくとも戦後の日本の政治家は意識的であるのは当然のこととぼくは思っている。戦前の歴史について学んでいれば、多少の立場の違いはあっても、当然そうであろう。
だからこそ、安倍晋三が「美しい国」「誇りのある国」を言い、同時に「戦争ができる国」を目指すかのような発言を続けるとき、少なくとも彼は、最優先には「国民」のことを考えてはいないなと思えてしまう。確かに「国」のことは考えているだろう。だが、それは誰の「国」なのか?
靖国神社についてのメモ-2 [テレビのこちら側で]
一連の騒動のなかで「靖国神社は日本の伝統であり文化」というフレーズを何度となく耳にした。前回も書いたとおり、靖国神社というのは、国家として徴兵をスムーズに実施し、自由に戦争を遂行できるようにするための人工的な装置(天皇を必須の出演者とする劇場的装置)であって、それ自体は日本の歴史においては、きわめて特殊な存在である。
靖国神社は、(1) 日本が国家としていつでも海外戦争を開戦可能であり、(2) 国民一人一人の意志にかかわらず国家が自由に国民を徴兵可能であり、(3) さらに天皇が国家元首であり、かつ現人神とされていること、というきわめて特殊な条件下において創設され、存続し得たものであって、それは長く見積もっても、明治から終戦までのわずか70年程度の長さの存在にすぎない。
それが国民の多くに浸透したと言えるのは、日本が泥沼の戦争に突入していった、後半の数十年程度のことである。戦後の歳月はすでに60年以上が過ぎ、靖国が靖国であった時間を、実質としてはすでに超えていると考えて良い。
あの時代は良かった。あの時代よもう一度という、過去に拘泥したい理由のある一部の人間の思惑を脇に置いて、理性的に見直す限り、靖国神社という存在は、決して伝統的な存在でも、日本の文化でもない。その本質においても、その存在の長さにおいても、である。
歴史を見るというのは、たぶん、ある程度の年齢を必要とする。子どもの時間感覚と老人のそれとは異なる。わずか数十年の鬼っ子的な存在を日本の伝統と言ったり、文化と言ったりするのは、言わば、子ども的な時間感覚であり、さもなければ、想像力の欠如と言うべきであろう。
にもかかわらず、それが伝統とされたり、文化であると一部の人々が強弁できたりするのは、それが宗教という外貌を持っているからにほかならない。宗教という外貌を持って、実は、宗教とは関係ないところで人々を支配し、縛りつけている、というのが、戦国時代末期、織田信長が目の敵とした「宗教勢力」である。
それは、織田信長の時代とともに滅びたわけではない。そういうマインドコントロールに、日本人は本来的に弱い性向がある。一神教的伝統を持たない日本人は、悪意を持って強弁されると、それを否定できない。否定する根拠を持たない。強圧的な「布教」に弱い所以である。
靖国神社というものも、そういう日本人に有効な「効力」を計算した上で、人工的に構成され、強制された国家の「虚構」にすぎない。それは、本質的には決して宗教的な施設ではないのである。
小泉首相に比べ、カリスマ性に乏しいされる安倍官房長官に、靖国問題での軟化を期待する向きもあるが、長州と靖国神社という過去の経緯を踏まえる限り、長州出身の安倍さんには期待するだけ無駄というものだろう。
繰り返しになるが、権力者が「美」を口にすることの「いかがわしさ」に無神経であるという一点だけでも、指導者としての徳に欠けていることは明らかである。
前の10件 | -








